2006年11月27日 (月)

『新庄剛志』~サービスの人

実家で食事をとっていると、“ビストロSMAP”に新庄が出ていた。普段、バラエティ番組をあまり見ない俺だけど、ハマってしまった。やっぱり、やつは面白い。

「今後もみんなをあっと驚かせることを続けていきたい」

プロ野球パ・リーグ、北海道日本ハムファイターズの本拠地・札幌ドームでの引退会見。日本一から一夜明けた10月27日、新庄剛志選手は球団が用意した会見場の使用を拒否し、マウンドで報道陣の質問を受けた。らしいなあ~

SMAP×SMAPでの彼は最高だったけど、まだまだ準備段階のはず。

中高時代、学校帰りに友人とよく甲子園に行った。もちろん、阪神ファン。

「弱小タイガースを応援して、勝たせる」のが楽しかった。事実、俺が行った試合はよく勝った。そういえば、大学生時代(定位置をキープしてた時代です)、13連勝(約3年間)したこともあった。

ライトスタンドから彼の守備を見るのが楽しかった。矢のような送球や打球の落下地点への到達速度、打者ごとの守備位置、ダイビングキャッチ、そして、チャンスに強い打撃。

彼のサヨナラホームランを、2回以上は目撃している。元巨人の石毛博史(近鉄、阪神でもがんばってたなあ。彼のブログはココをクリック☆)からレフトスタンドポール際に運んだもの、雨の試合でバックスクリーンに叩き込んだもの…

タイムリーヒットやホームランを打った後、センターの守備に着くと、新庄コールが起こる。ライトスタンド、レフトスタンド、アルプススタンド…。彼はその全てに応えていた。俺たち観客に気をとられていたため、センターフライに追いつけないこともあった。

そういえば、普通のフライなのに、わざとスタートを遅らせて、ダイビングキャッチをしていたなあ。

とにかく、サービス精神旺盛!!

日本一が決まった後、「忘れられない出来事は?」と問われ、彼は答えた。

「1997年のオールスターゲーム。僕が打席に立つと、応援がボイコットされ、外野席からペットボトルとかビール缶が投げ込まれた。このとき感じた寂しさというのは、とても言葉ではあらわせない」

実は、この試合に足を運んでいた(当時、西武の松井稼頭央選手<今はコロラド・ロッキーズ、公式HPココをクリック☆>がMVPをとっていた)。3塁側の内野席で観戦していた。

このシーズンの新庄はとても成績が悪かった。シーズン中、甲子園で何度野次ったことか。でも、ファン投票で選ばれた彼への応援団の態度には強い違和感を覚えた。ファンのために出場した彼に、あまりにも酷じゃないか…

弱い阪神へのストレスを新庄に対してぶつけているようにもみえた。

ボロボロになって野球選手を終えたくはない。まだできるのに……って言われながら辞めたい

3年後にFA資格を取ったら、日本に戻ってプレーするのも選択肢だと思っている

彼が、阪神タイガースからニューヨークメッツに移籍した直後に出版した『ドリーミングベイビー』という自伝の中の言葉。

引退後、読み返してみたら、まさに有言実行じゃん☆

これから新庄が何をやらかすのか、目が離せない!!

| | コメント (0) | トラックバック (5)

2006年10月10日 (火)

プロフェッショナル~阪神-巨人最終戦(10月8日)から

2006年度のセントラルリーグ。久しぶりに野球に引き込まれた1年だった。

その中で、プロフェッショナルを感じさせる選手を見つけた。阪神タイガースの鳥谷敬選手と読売ジャイアンツのイ(李)・スンヨプ選手だ。

先日、テレビ観戦した阪神-巨人最終戦から、イ・スンヨプ選手を取り上げたい。

1対1の同点で迎えた10回表、1アウト1、2塁で、李に打順が回ってきた。

マウンドには、ケガからの復帰後、調子の上がらない阪神・久保田智之。

李は、インコースのストレートをたたき、ライト前に決勝のタイムリーヒットを放った。

彼のヒットで巨人の勝利と同時に、阪神の奇跡の終焉を感じた。

なぜなら、Bクラスが決まったチームの中で、ただひとり李が自身の仕事を遂げるため、全力勝負をしていたから。優勝目指す阪神の選手と同様の気迫を持っていたから。

3月に行われたWBC(北中米、アジア、欧州、アフリカ、豪州から合計16の国と地域が参加した国際大会。)では韓国代表の4番バッターとして出場。5本塁打・10打点で本塁打・打点のタイトルを獲得したほかベストナインにも選ばれた。日本で行われた1次リーグの日本戦で決勝2ラン、アメリカで行われたメキシコ、アメリカ戦でもホームランを放ち、韓国チームの勝利に貢献した。

いざというときの精神力は群を抜いている。

また、ファンのために魅せることも忘れていない。

8月1日、東京ドームでの阪神戦。阪神のエース・井川慶から2本のホームランを放つ。1回裏の日韓通算400号のホームラン、そして2対2の同点で迎えた9回裏ツーアウトでのサヨナラホームラン。

「巨人のユニホームで400号が打てるとは思わなかった。そして伝統あるチームの投手からサヨナラホームランを打てて本当にうれしい」

ヒーローインタビューでの謙虚な言葉とは裏腹に、ファンが一番喜ぶ派手なことををやってのけた。

10月8日の試合で忘れてはならないのが、一回表の巨人の先制点。李のタイムリーツーベースによるものだった。この一点で、阪神は後手に回った。デーゲームで中日ドラゴンズが逆転勝ちをしていたのも重なり、負けられないプレッシャーと戦い続けることになる。

日本では妥協という文化がある。

「阪神が負けた時点で、セ・リーグの優勝チームが決まる。だから、勝ちにこだわらず、気楽にプレーする」こう考えていた巨人の選手は多いのではないか。

しかし、李は勝ちにこだわり、全力で相手に向かっていった。

そう、妥協とプロフェショナルは相容れない。李は周りに流されない強靭な精神力を持っている。

魅せるプレー・勝利・懸命な姿を表現するのが、真のプロフェショナルだと思う。

阪神タイガースの快進撃を支えたのは、野球の聖地「甲子園」だった。ここでは、「プロ野球の人気低迷」という言葉は無縁だ。夏の高校野球でも、早稲田実業・斎藤佑樹投手と駒大苫小牧・田中将大投手の戦いを引き出した。

李が真のプロフェショナルを見せたのが、野球の聖地「甲子園」だったことは、偶然だろうか。今後の“プロ”野球へのヒントを出していると思えて仕方がない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年10月 1日 (日)

背番号『7』 in 阪神タイガース

2006年度、セ・リーグの優勝争いをする両チームの最終決戦の初戦、9月29日の阪神対中日戦。

この試合は、中日の3ゲームリードで迎えられた。阪神敗戦は、セ・リーグの優勝チーム決定を意味していた。

そんな中、阪神の“背番号7”は勝利を決める一打をはなった。

阪神1点リードの7回2死満塁。試合を優勢に進めていたのは、中日ドラゴンズだった。このチャンスに点をとらないと、勝利の女神は中日に微笑むかのように思われた。

バッターボックスに入ったのは、昨年の打点王・今岡誠だった。

今シーズン当初からいっこうに調子が上がらない。チャンスに強いという今までの面影はなかった。

泣きっ面に蜂。6月17日のオリックス戦の死球によって、右手首を痛める。完治1カ月の大ケガであったので、以前からの持病であったバネ指の手術へと踏み切る。

9月17日の中日戦から1軍復帰を果たす。しかし、その後、3回の代打で全く結果を残せていなかった。

9月17日の試合の打席は、テレビで見ていた。全くバットを振らずに、3球三振。

「ボールが見えていないのかなあ」と寂しい気持ちになった。

それだけに、29日、右中間へ3点タイムリーヒットをはなち、2塁上で手をたたく背番号『7』の姿が喜ばしかった。まるで、自分のことのように。

“背番号7”にこだわるのには、訳がある。

誰にでも、少年時代、あこがれた野球選手やサッカー選手がいるんじゃないかなあ(女性のかたでもいらっしゃるかも)。俺にとっては、阪神タイガース真弓明信だった。彼の背番号が『7』だった。

親の影響で、幼いころから甲子園球場に足を運んだ。1985年の日本一も覚えている。

中高時代には、学校帰りに友人と「代打の神様・真弓」を見に行った。本当にチャンスに強い選手だった。

忘れられないエピソードがある。

1990年7月、ローカルTVの野球中継(対首位の広島戦)で、ちびっ子解説をした。

真弓選手がバッターボックスに入ったとき、「真弓選手のファンだってね。今日はどれくらい打ってほしいですか?」と実況のおじさんが聞いた。

「ホームラン3本打ってほしいです」と答えた俺。実況のおじさんと解説のはげたおじいさん(後で知ったのですが、この方阪神の元監督の後藤さんでした。未だに誰かわからにゃい)は、コメントに困っていた。我ながら、気の利かない子どもでした、ハイ。

しかーし、おじさん2人の困惑をよそに、真弓選手が、ホームランをかっとばす!!

実況のおじさまは、「願いが届いてよかったね。おめでとう!」と興奮気味。本気で3本のホームランを打つと思っていた俺は、意外に冷静だった。

当時弱小だったにも関わらず、試合は阪神の大勝。素晴らしい思い出です☆

実家の押入れに、“『7』真弓明信”と書いてあるサインボールと色紙が眠っているはず。

その背番号を受け継いだ今岡。

彼は何度も辛酸をなめている。野村克也監督時代には、不遇な時間を過ごした。

今こそ、あのときの悔しさを、苦しさを思い出してほしい。

今シーズンに活躍している、藤川球児、金本知憲、矢野輝弘、濱中治、福原忍、下柳剛、井川慶が持っていないものを今岡は持っている。

(鳥谷敬が、今岡と似ていると感じるのは僕だけでしょうか?)

普段はひょうひょうとしている背番号『7』は、いざという時、チームを助ける。

その姿を、みんなが待っている。

☆よかったら、みなさんの有名人とのエピソード、書き込んでくださいね♪

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年9月 9日 (土)

ホームステイinメルボルン~球児たちに思いを寄せて

2006年夏の甲子園をわかせた球児たちが参加した日米親善高校野球は、3勝1敗1分。もちろん、決勝戦で死闘を演じた2人の活躍あっての結果だ。

早稲田実業・斎藤佑樹投手と駒大苫小牧・田中将大投手。「ハンカチ王子」と「北の怪腕」は、帰国を前にアメリカへの名残をにじませていた。斉藤くんは、「米国の雰囲気に触れて感動した。この経験をこれからの人生に生かしたい」田中くんは、「もう少しホームステイしたかった」と。

選手たちは、アメリカ滞在中、ホームステイしていた(てっきり、ホテルに宿泊しているものと思ってた)。当然、メジャーリーグや雄大な大地に感動したと思う。ただ、現地に住む人と生活をともにしながら、アメリカの選手と“やり取り”したことがアメリカへの思いをより強くしているのではないかと思う。

自分がオーストラリアのメルボルンにホームステイしたときを思い出した。おこがましい気もするけど、ニュースを見て懐かしかったので、ちょっと振り返ってみます。                                                                     

語学留学のための滞在だった。学校から一時間以上かかるステイ先だったが、海のMarinerstwilly30oct04003_2 近くにある素晴らしい立地だった。まるで、リゾート地にある別荘のよう=写真。バルコニーからは海が見えていた。

                                                    

ホストは、オーストラリア出身のマーク(36)、イタリア出身のジェシカ(21)。着いた最初に驚いたのは、ホストマザーの若さだったっけ。なんたって自分よりも若いんだもん。

ステイメイトは、韓国出身のリッキー(24)、デンマーク出身のローラ(18)。リッキーは語学留学、ローラはマネージメント(経済)の勉強のため、来豪していた。 年齢は当時のもの

2カ月弱の滞在だったが、非常に密度の濃い時間だった。短い期間だったからこそ、一緒に過ごす時間を大切にしたのかもしれない。今でも彼ら、彼女らの言葉は心に残っている。

とはいえ、最初の一週間はつらかった。マークのオージーイングリッシュは、英語とは思えなかった。ジェシカやローラの話すスピードは、CNNニュースよりも速かった(笑)。

リッキーは、ヨン様に似ていた(関係ないか)。

夕食のテーブルで、一人話題に入れなかった。愛想笑いのできない俺には、二重苦だった。

「観光やリフレッシュがてらに語学留学している金持ちの日本人」と思われていた。

食事後、リッキーに会話内容を確認している始末。リッキーとは同じ語学学校だった。彼が一番上のクラスで、こんな俺でも三番目のクラス…。

でも、二週間経つと、言い合ったり、議論したり、母国や故郷、これまでの人生を語り合ったりする間柄になった。印象深い言葉を、プラス○とマイナス×に分けて…

<マーク>○「日本人の味覚や食文化は優れている。健康にもいい」「礼儀正しい」

×「東京の駅の放送はなんであんなにうるさいんだ。電車が発車するとき、何て言ってるんだ」。“ドアが閉まります。ご注意ください”だよと伝えると、「何でそんな当たり前のことを。日本人は自分で判断できないのか」

<ローラ>○“那智の滝”の写真を見て、「美しくて、壮大。デンマークでは、5メートル級でも大きいほう。自然の豊かな国ね」

×バスタブにお湯を入れてると、「メルボルンは水不足で困ってるの。もっと環境のことを考えなさい。あなたたち日本人はエアコンや電気も付けっぱなしなんでしょ」

×「『たまごっち』。クレイジーとしかいいようがない。生き物の命を何だと思ってるの」

<リッキー>○「宮崎駿の世界は素晴らしい。彼の地球に対する考え方を広めたい」

×西欧人に対しての批判。「食べ物をシェアするのは韓国の文化。それを幼児のようだというのは納得がいかない」

<ジェシカ>(クラブで酒を飲みながらなので少し過激)

○「日本人は性的モラルがある。複数の恋人を作らない」

×「働きすぎ。何のために生きてるのかわからない」

Heraldsun005左から、ローラ、ジェシカ、マーク、トニー、カヨ。

トニー、カヨは、俺の帰国後にやってきた留学生。

※デジカメを持っていなかったので、写真はマークがメールに添付してくれたものです。

                        

    

ふとした時に、彼らの言葉が頭をよぎる。

何か決断に迫られたときには、判断材料にもなっている。文化の違う下で生きてきた人たちとの“本気のやり取り”はかけがえのないものを生み出してくれる。            

           

日本選抜の球児たちは将来の選択を余儀なくされている。

報道される斉藤くんを例にとっても、大きく心が揺れているのがわかる。

限られた時間の中、自分自身の答えを出すのだろうと思う。今年の夏の甲子園で感動を与えてくれた選手たちは、自分で考える力を持っていた。

これからの彼らを温かい目で見守りたいものだ。

今回の遠征メンバーから日米の架け橋となる人が生まれてくる気がしてならない。

                                       

「野球とは、日本とアメリカをつなぐ最も大きなものの一つだ」     

          

ワシントンポストの記者の言葉が思い出される。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年9月 4日 (月)

藤川球児

昨年4月、仕事で阪神タイガースを担当する記者の案内の下、甲子園球場を見学した。監督部屋・ベンチ・記者席・グラウンド…。練習場からグラウンドへ通じる通路で話をしていると、数人の選手が通り過ぎていった。ポーカーフェイスを装っていた俺は、幼い頃から阪神ファン。内心興奮していた。

山崎一玄嘉勢敏弘(二人は打撃投手になっていた)、そして藤川球児。彼らは、カゴいっぱいのボールを運んでいた。2往復くらいしてからだろうか、途中で一人の選手があいさつにきた。

 

藤川だった。                                  

 

帽子を取り、「よろしくお願いします」と。

見ず知らずの俺たち(見学者は他にもいた)に対して気を配り、一軍の選手でありながらボールを運ぶという姿勢。苦労を知っている人間の謙虚さを感じた。それは、自信からにじみ出る類のものと思われた。試合開始まで、間近で選手たちの練習を見ていたが、藤川は一軍の選手に見えなかった。それくらい、ひたむきに、熱心に、取り組んでいた。

「もっとリラックスしたらいいのになあ」と見ていたのを思い出す。

この年、稲尾和久らが持っていたシーズン最多登板記録(78試合)を超える史上初の年間80試合登板を果たし、阪神優勝の立役者となる。普段からの地道な努力が身を結んだのだろう。そして、彼の人間性に対して神様が記録をプレゼントしたんじゃないかな。だって、最多登板記録ってチーム状況とか周りの協力に影響されるものだもん。

それと、野球ファンでなくても、「名前しってるよ」って言うくらい有名になった。

今年、オールスターでの清原との勝負に代表されるように、一気に球界のスターになった藤川。周りの注目が集まり、世間やマスコミから無理を「強要」されるようになった。野球選手はグラウンドに出てナンボだから、「行ってくれ(投げてくれ)」と言われて断ることはないだろう。特に、彼の場合は。

先日、ケガから復帰した後のヒーローインタビューで、藤川は言葉を失った。涙を見せた。

2002年9月、初勝利をあげたときには、嗚咽した。苦労を思い出してのココロの涙。でも、今回の涙は違うものに見えた。カラダの涙に思えてしかたがない。

登録抹消されたとき、「今年はもういいよ。来年以降も投げてる姿をみたいから」と思った。

でも、藤川が戻ってきてからのチームの変化を見て、複雑な気持ちになった。

ベンチ、ファンは、藤川の存在を優勝への絶対条件に考えている。そして、優勝をあきらめていない。

満員のファン、野球界を思い、彼は投げるしかないのかもしれない。もしかしたら、今がピークなのかもしれない。

あまりにも厳しい世界。何が正しいかもわからない。でも一つだけ思った。 

打者を抑えた後の球児の顔は最高だ」 

賛否両論あると思います。コメントもらえたら、うれしいです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)